2009年12月15日火曜日

講座「三島を学ぶ」第2回開催しました!


13日(日)午後からは講座「三島を学ぶ」第2回「中世の三島町―山ノ内一族の興亡―」を開催いたしました。前回に引き続き、講師は三島町文化財専門委員の小柴吉男氏にお願いしています。氏は今回、A4で5枚にも及ぶ資料をお作りになっており、たいへん力のこもった講演となりました。

ちなみに小柴氏は御年85歳!パソコンがお得意で、配布した資料はWordを駆使し、人の名前などわかりにくい漢字には読者を考慮しルビまで振っています。私が歳をとった時、最先端を機材をはたして使えるかを考えると、ちょっと疑問です。小柴氏の飽くなき探究心には頭が下がるばかりです。

さて、今回の内容は中世、いわゆる源平合戦で源氏が勝利し、その家臣である山ノ内氏が只見川流域に入った時期からはじまります。ただ、歴史書、家系図というものは不確かなものらしく、例えば山ノ内氏の家系図は何種類もあり、確実なものは不明らしいです。

文献史料は全てを信じてもダメ、だからといって、全てをウソだと決めつけるのも、もったいないそうです。「史料批判」などと言うそうですが、タイムマシンで当時をみることができない現在、史料の真偽を判断する眼を養うことが重要なのだとか。

といっても、ずっと信頼できないと思われていた文書が遺跡の発掘で真実性を帯びてくることもあるそうです。『西方正統記』という文書はすごく怪しいものだったらしいのですが、文書掲載の絵図が三島町の西方地区で発掘された鴫ヶ城(しぎがじょう)跡と類似点が多く、すべてが創作ではないことが明らかになったそうです。

歴史学だけではわからなかったことが考古学の観点からわかるようになる。一辺倒のやり方では限界はあるけれど、他のやり方をすれば問題が解けることもある。これって色々なことに応用できそうだなとお話をお聞きしていて思いました。

さて、内容にもどりますと、山ノ内氏関連の城や柵といったものは三島町に10数か所あるそうで、そのなかで数ヶ所しか発掘されておらず、まだまだわかっていないことも多いそうです。ただ、山ノ内氏は当時の中国渡来の青磁がいくつもみつかっており、お金持ちだったようです。江戸時代に入る前に滅び、有力大名の家臣になる者、米沢など他の地に移り住む者などもいたというお話でした。

三島町には山内という苗字の方が何軒もありますが、そのなかには子孫である可能性が高い家もあるけれど、確かなことはいえないとのこと。ただ、明治に北海道に移住し、大正時代に朝鮮半島から宮下地区の神社改築の寄付をした方がいたとか。他にも20年ほど前、西方地区出身であることが明らかな古い家系図を持って三島町に訪れた方がいたらしいです。百年、もしくはもっと前にこの地を出た方が自分のルーツを知りたくて三島に帰ってくる、ロマンがある話だと思います。

刺激的な内容でしたが、まだまだ三島の中世ってわからないことが多いのだとも感じました。支配者である山ノ内氏だけでなく、その家臣や村人たちはどんな生活をしていたのか、興味はつきません。

ただ教えてもらうのではなく、自分から学んでいかなくてはとも思います。さしあたっては、古文書を読むスキルが欲しいです。中世や近世の難解な文書を読み解く快感ってのを味わってみたいなぁ。


長くなりましたが、次回予告です!第1回で縄文・弥生、第2回で中世と来ましたので、今度は三島の古代を学びたいと思います。といっても三島町では遺跡も文献もほとんどまったくない時代、けれど当時を偲ばせる伝説がいくつもあります。例えば、大石田地区にかつて三十六の坊があったともいわれる大高寺や早戸地区にあり1200年前に開湯したという伝承のある鶴の湯などを取り上げる予定です。タイトルは「伝説から三島の古代を探る(仮)」。

次回講座では歴史的事実であるかは何ともいえないし、言うこともできないでしょう。ただ、現在まで伝説が語り継がれてきたということは確か。そういった人々の想いを、そのロマンを考えてみる場であればと考えています。

日時は1月30日(土)の14:00~16:00、場所はいつもと同じ「いまここカフェ」です。講師はおなじみ小柴吉男氏にお願いしています。詳細が決まり次第、本ブログでもお知らせいたします。

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